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引っ越しをした750乗り。

平成のおわりと、ほぼ時を同じくして定年を迎えました。愛機Z750Fourのこと、趣味のこと、日々の出来事や思い出話を徒然に記していきます。

福丸の話(去勢手術を終え、わが家に馴れるまで)

 

 

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10か月が過ぎて

さて、凶暴なウチの福丸ですが、若松先生による去勢手術も無事に終わり、

少しずつわが家(というより家の人に)馴れてきました。

引き取って二、三か月後にはケージからも出てくるようになり、

おとなしくなでられるなど、飼い猫っぽく

なってきたのでした。

 

上のショットは2018年1月1日、人間の座布団に寝そべり、電気ストーブにあたって

くつろぐ福丸です。

でもまだ、このころは窓の外から近づくと、「シャー」と威嚇してきていました

(その辺の感覚というか、意識が理解できない)。

 

あ、ちなみに、福丸が来た最初の晩に引っかかれた家内の傷ですが、

人医に診てもらったところ、点滴をするほどの傷でした。

爪に病原菌が入っていたのでしょうね、さすが元野良猫。

 

それでも、10か月後には、このザマですよ。

 

今は、家内と末娘にすっかり馴れて、本当に普通の飼い猫になりました。

もう何年も家にいるかのように…

 

次回は、その福丸の秘蔵ショットをお目に欠けるつもりです。

 

 

昭和50年代の高校野球の話

私、今は千葉に住んでいますが、25歳まで横浜に住んでいました。

出身高校は横浜市立桜丘高校といいます。

 

この高校、のんびりした校風が特徴だったのですが、もう一つ、特徴がありました。

当時、神奈川県の夏の高校野球の決勝戦は、県立保土ヶ球場で行われていたのですが、

私の母校、市立桜丘高校(ああ、めんどくさい。ごめんさい。以下桜高)は、

その保土ヶ谷球場の直近の公立高校だったのです。

私が知ったのは、入学後でしたが、同級、あるいは一つ二つ下の女子には

意外と知られていたようです(あくまでもおばか男子の間での噂です)。

その特徴というのは、その保土ヶ谷球場高校野球の試合が行われるときには、

我が桜高の生徒がスコアボード係やウグイス譲を務めるということです。

これは、当時の県高野連の偉いさんであったT先生が

桜高の教師だったことも関係があると思います(就職して十年近く経って、

千葉県でこの先生の名前を聞くことになるのですが、それはまた、別の話)。

実際、私たちにも、高校一年生の時、T先生から

「夏休みにアルバイトしない?保土ヶ谷球場のスコアボード係なんだけど」

というお声が掛かりました。

男子はスコアボード、では、女子は?

 

はい。ウグイス譲ですね。

 

さて、当時私の同学年の高校生には、日本中で有名な三人の人物がいました。

一人は三浦(山口)百恵さん。

二人目は原辰徳さん。

三人目は、山田詠美(この時は存在も知らなかった)。

 

百恵さんや山田詠美(なぜ呼び捨て?それはまたいつか。)は別の話として、

原辰徳さん(現巨人軍監督)は、東海大相模高校出身ですよね。

私が高校時代神奈川県では、東海大相模が圧倒的な強さを誇っていました。

そしてその中で人気を博していたのは、原辰徳さんです。

その「原辰徳」さんの名前を、球場で呼ぶことができるのが、

我が桜高の女子生徒の(中の何人かの)特権だったのです。

 

とにかく、日ごろは閑散としている保土ヶ谷球場ですが、

東海大相模の試合があるときは、女子高校生が駐車場までいっぱいになるほど。

それで、原辰徳さんが在学中には、我が桜高には女子の受験者が増加した、

という、これはまあおばか男子生徒の間のただの噂ですけど。

インターネットもない時代に、どうしてそんなことを女子中学生や女子高校生が知っていたのだろう。

落ち着いて考えてみれば、本当にただの噂だったのかもしれません。

 

よし、今度の同窓会で、女子に聞いてみよう。

 

あ、原辰徳さんが甲子園に出場した時、NHKのアナウンサーが

学校名を「とうかいおおずもう」と間違えて読んだ、というのも

遠い昔の噂話です。あしからず。

 

 

 

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病気のこと まとめ

さて、そんなこんなで十日が過ぎ、退院することとなりました。

体調は入院前と同じ(本人の感覚です)。

 

処方された薬は三種類。

一つめ。血栓ができるのを抑える薬

二つ目。血管を拡げ、血圧を上げる物質の働きを抑える薬。

 →この薬にはグレープフルーツは禁忌です。

三つ目。血管を拡げて、血圧を下げる薬。

 

特に生活上の注意とかなく、薬だけ処方され、退院しました。。

 毎朝食後、上記三種類の薬を飲む、ということだけ言われて…

 

でも、やっぱり後遺症らしきものは出ていました。

残暑が厳しい時期だったのに、右手がうすら寒く感じる、

右手がうまく動かないので、黒板が書きにくい。

大きな声が出ない。

 

右手がうまく動かないことと、大きな声が出ないという二点は、

私が今春定年での退職を決意した理由の大きな要素にはなりました。

 

その話はまた、別の話として、

 

脳梗塞の前兆を感じてから、退院するまでの自分を振り返ってみると、

本当に悪運が強かった、の一言に尽きます。

 

この病気は致死率15%、介護が必要な後遺障害が出る率は50%。

 

なのに、こうして発症以前と同様の生活をできているというのは、

悪運が強かった、としか言えないと思います。

 

でも、本当に伝えたいのは、皆さん、この病気を甘く見ないでほしいということです。

斯くいう自分も、明日の朝冷たくなっていないという保証はありません。

具合が悪い、脳梗塞の前兆が当てはまる、と感じたら速やかに病院へ行きましょう。

 

でも、仕事に穴をあけたら…

 

勤め人ならだれでも思うでしょう。自分もそうでした。

でも、命あってのものだねです。

 

この病気で周囲に悲しい思いをさせる人が、一人でも少なくなってくれれば、

嬉しいです。

 

 

 

 

病気のこと 3

さて、十日間の入院生活のスタートです。

 

毎朝、食事前に検温と血圧測定。そして投薬と点滴。

投薬と点滴は、血栓を溶かし、血管を広げ、血圧を下げるためのものでした。

 

五日後にはリハビリが始まるのですが、それまでは

ひたすら食べて寝て、の生活が続きました。

御多分に漏れず、テレビを見たり、窓の外を眺めたり、という

日々でした。

 

ああ、あの頃に「なつぞら」放映していれば、

入院の徒然もずいぶん慰められたろうになあ、

というのは、勝手な感想。

 

私の症状を見ながら、医師を中心に、

きちんとチーム医療のプログラムがたてられていたようです。

 

五日の入院と静養の結果、血圧も低下し、

まず、理学療法(昔は物療とも呼ばれていたらしいbyデジタル大辞泉)です。

このリハビリは、「身体に障害のある人に対し、運動療法・マッサージなどにより、リハビリテーションとして行う治療」(デジタル大辞泉による)で、

入院後も身体的な障害を自覚できなかった自分には、

「いらないんじゃない?」と思っていたのですが、

今にして思えば、あの時のリハビリのおかげで、(身体的に)普通に

生活できているのかもしれません。

手すりと手すりの間を歩いたり、手足をマッサージしてもらったり、

というプログラムがメインでした。

 

もう一つのリハビリは「作業療法」です。

このリハビリは(デジタル大辞泉には)、

「病気の回復や社会復帰の促進を図る精神療法」とあります。

作業療法士さんが話した一つのストーリの内容を、どこまで理解していて、

どこまで再現できるか、というような内容でした。

 

実は、前の記事で記した、脳梗塞で入院した同僚ですが、

入院してから少し「?」というところが顔を出していたのです。

今でも忘れられないのは、

「今日の17時までに必ずこの書類を仕上げること」という指示を

出していたにもかかわらず、書類が上がってこない。

というか、全館放送をかけても反応がない。

 

そこで携帯に電話すると、

「今日はどこそこの○○で、××の特売をやっているので、

車で向かっている」という返事。

「例の書類は?」という問いかけにも「ああ。」というだけ。

「すまないけれど、今すぐ職場に戻って、仕上げて。」

といって職場に呼び戻し、書類を作らせた、ということがあったことです。

 

これ以外にも、似たようなポカが多く、私も上司への説明に困ったことが

何度かありました。

 

作業療法士さんに、この話をすると、

作業療法というのは、そうならないためのリハビリである」旨の

返事をもらいました。

そして、「今のあなたの様子を見ていると、全然心配はないから。」

というありがたいお返事。

なによりホッとしました。

 

午前中は、点滴と静養、午後はリハビリ、という十日間の生活が終わり、

無事退院の日を迎えたのでした。

 

そのころには、病院の向かいにあるマンションの、例の車のフロントマスクも

一つに見えるようになっていました。

退院の日のMRI検査の結果、

「左脳幹の一部の梗塞は治癒していない。」とのこと。

右手に少なからず後遺症が残るでしょう、と言われたのですが、

その後遺症は具体的には、右手のしびれ、右手の温感の異常(寒いのに暑く感じたり、暑いのに寒く感じたり)というものでした。

                          続きます

太宰治が見た富岳三景

立秋は過ぎても、涼しくなりませんね。

私は、梗塞の再発を恐れて、1か月以上バイクには乗っていません。

なので、ウチの中にしかネタがない。

 

それで、タイトル通り、昔撮影した富士山の写真など。

 

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御坂峠の天下茶屋からの河口湖と富士山(35㎜)

太宰治が富岳百景執筆のために滞在した、山梨県の御坂峠にある天下茶屋から望む

富士山です(太宰は二階、この写真は道路際から、という違いはありますが)

 

 

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天下茶屋から望む富士山(200㎜)

同じ位置からズームレンズで撮ってみました。 

写真を撮ったのは、何十年も前の5月の連休です。

積もった雪も融け始めたころです。

 

季節は違いますが、太宰はこのような場所から富士を望みつつ執筆していたのでしょう。

 

三枚目の写真は、甲府の町からとったものです。

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甲府の町から見た富士山

山の向こうに、わずかに頂上が見えます。

「なんだ。甲府の町からも富士山が見えるじゃないか。馬鹿にしていやがる」

っていう、まさにその季節(晩秋)の富士です。

 

いかがでしたか、富岳三景。

すこしでも山の冷気を感じていただけましたか。

残暑厳しき折、くれぐれもご自愛ください。

 

 

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BMWが安く買える、というCMツイート

が、昨日つぶやかれていました。

確かに、中古の1シリーズとか3シリーズなら、それほど高くない

と思います。

でも、

「買える」のと、

BMW本来の性能を味わえる(freude am fahren)を味わう」

というのは別だと思うのです。

中古車販売業者の営業を妨害するつもりはありませんし、

このツイートを見て「BMW買ってみようか」と思うのも

個人の勝手だと思います。

 

ただ、1988年式320iスポーツバージョンから

30有余年、BMWの6気筒マニュアルトランスミッション

乗り継いできた(途中空白あり)経験から、これは知っておいてほしいのです。

 

BMWは、高性能で、運転する喜びを味わえる車ですが、

その状態を維持するのは経済的負担も大きいです。

 

そのうち、自分のBMW歴(故障歴?)も書いていこうと思っていますが、

ブレーキパッドや各種ブッシュの交換サイクルも、国産車では考えられないほど

早いです。それは、安全に、気持ちよく乗るためには必須のことなのですが、

お金もかかります。

 

メカ音痴の自分にはあまり偉そうなことは言えないですが、

購入金額だけでは、楽しいカーライフは送れないということは

知ったうえで購入を検討していただきたいと思います。

 

 

 

 

昔のお話

昭和も6分の5を過ぎたころ、世間には「暴走族」という名称の

大型バイクや四輪車を集団で乗り回し、騒音をまき散らしたり、

悪行?を働く集団がいました。

当時の大人たちは短絡的に、

「大型バイク=暴走族=社会悪」

と考え、青少年を大型バイクから切り離そうと

いろいろ考えました。

その一つが、

「大型免許を取らせない」

自動二輪の免許は、中型までしか教習所や自動車学校では取らせない、

大型に乗りたければ公安委員会管轄の運転免許試験場での実技試験に

合格しなければならない、という制度。

二つ目が、

「高校生は二輪車に乗らせない、免許を取らせない、買わせない」

俗にいう三ナイ運動でした。

 

そんなことが起こる前の昭和の高校生は(バイク好きはバイク好きで)

わりと普通に生活できていたような気がします。

 

昭和49年、4月。私が入学した横浜市立桜丘高等学校での、

とある先生と、当時私のクラスの学級委員長だったSの会話。

先生(あ、この先生もイニシャルSだった)「S君(委員長)、あんた昨日

ナナハン乗って学校来たでしょう。免許あるの?」

委員長「ありますよお」

先生「じゃ、明日免許証持ってきて見せなさい。」

委員長「はあい。」

 

という会話が普通に成り立っている高校生活でした。

小峰元著「アルキメデス豆畑に死す」の中には、

「今どきの高校生はナナハンかステレオか、どちらかを欲しがる」というような

記述もありました。

 

実は私は、その当時はバイクには興味はなく、山梨に帰省した時、

従兄のスーパーカブを借りて山道を走るくらいでしたが、某新聞の特集記事に

「オートバイは社会の鬼っ子だ」というのがあり、

たいそう憤慨した覚えがあります。

 

この記事はもしかしたら昭和50年代のものだったかもしれないのですが、

「オートバイは、ひったくりや暴走行為に使われる危険な乗り物だから

社会から抹殺してしまえ」という内容でした(記事の書かれた時期は

明確に覚えていないけれど、この論旨だけははっきり覚えています)。

その論理からいったら、「包丁は強盗や殺人に使われる危険な道具だから

社会から抹殺してしまえ」ですよね。

 

そんな記事があったり、免許制度の改正(改悪ではないかい?)や

三ナイ運動があったり、と二輪車に対する風当たりが強かった頃でした。

 

なので、6月5日の朝日新聞(あ、前述のバイク記事は朝日さんではないですよ)に、

HONDA DREAM CB750Four とか

石井いさみ著「ナナハンライダー」 という文字を見て(興味のある方は

朝日新聞デジタルで、検索できると思います)、

隔世の感を強くしたのでした。

 

またもとりとめのない昔のお話でした。

おつきあい、ありがとうございました。

 


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病気のこと 2

さて、急遽入院が決まり、家内や子供たちはかなり動揺していましたが、

自分は割と平静でした。

 

というのは、

私の父は、入院当時の私より何年か若くして、会社で勤務中に脳梗塞を発症。

救急車で川崎市内(当時父は、川崎の浅田にある運送会社に勤務していた)の

病院に搬送され、入院、右半身がほぼマヒ状態になってしまい、

その後二回目の脳梗塞で(最初の発症からは二十年以上経っていましたが、)

他界しているのです。

 

そんな経験から、「自分の梗塞は軽い。しかも早期に発見できた」という

変な自信から、まるで深刻に考えていませんでした。

 

というか、たばこ好き、酒好き、平均睡眠時間5時間。血圧超高め(勤務先の春季の検診ではいつも上が180)。発症しないわけがないといつも思っていたし、勤務先の同僚が脳梗塞を発症したときには、彼の退院後、前兆を聞きまくり、

参考にもしていたからです。

なので、前日のTV番組で言及されていた前兆通りの前兆がいくつも現れたとき

(特に対向車が2台に見えたとき)には、

「っしゃ。来た。」という感じでした。

 

前述の同僚も、自身の運転で病院へ行き、入院したという経歴を持っています。

私も自分で運転して病院まで来て、「MRI検査が終わったころ、迎えに来てね。」

と妻に言って車で帰ってもらっていたのです。

まあ、入院が決定してから、家内にパジャマを買ってきてもらい、ついでにバターロールパンを一袋差し入れてもらい、10日間の入院が始まったのです。

 

その晩(といっても18時ころ)の療養食は

・カレイの煮つけ

・ほうれんそうのお浸し

おかゆ

って感じでした。

いや、まずくなかったです。正直、以前食べた病院の食事の数倍おいしかった。

でも、何より量が少なかった。

それで前述のバターロールパンの差し入れになったのですが、

実は、これはいけない。

後で知ったのですが、私の食事は高血圧症対応の、減塩食だったのです。 

それを知ったのは、退院して数か月経ってからでした。

当時の私は、「あそこのパンがおいしい。」「ここのパンはまずい。」などと

わがまま放題。

それでも入院当日、病院の向かい側にあるマンションの駐車場に止まっていた

ある車のフロントマスクが、「まだ二つに見える。」ということを

気にする余裕を持ちつつ、減塩食を処方されているにもかかわらず、

パンを所望していたのでした。

            

               続きます。

 

 

昔のお話

昭和も後期の三分の一を過ぎたころ(具体的には、昭和40年以降)

自分の記憶もはっきりしてきます。

 

今朝ほど、twitter上に、

NHKの朝ドラ「なつぞら」で、昭和四十年代に

東京の民放で放送していた番組が、北海道で観られるのか、

という疑問があったので、気軽に返信したのですが、

気になって調べてみました。

 

北海道放送昭和32年4月1日に放送を開始しているようです。

この時は送信所が札幌の手稲山にあったということですから、

当然十勝の柴田牧場にはVHFの電波は届かなかったでしょう。

 

そこで帯広局の開局を調べましたが、ネット上では資料が見つかりません。

(○○ペディアは見たくない)

なので、以下は想像なのですが、なつたちのテレビアニメも、

(その当時開局していたであろう)北海道放送帯広局経由で、

柴田牧場で観ることができたのだという設定だと思います。

 

で、その当時を知る人間としては、どうしても書き記しておきたい。

当時の地方局には(たぶんまだ)そんなに自局で番組を作るノウハウとか、

体力がなかったのでしょう。少なくとも私の知る山梨県地方では、

東京の民放局の番組を、かなりのタイムラグを伴いつつ放送する、

という番組が多かったように思います。

そして、その間に流れるCMがよかった。

 

「お菓子の雪月。

帯広市西四条南15

電話0123-4-5678」

 

っていう文字が画面いっぱいに映り、

地元局のアナウンサーが読む。

こんなCMばっかりでした。

 

多分柴田牧場の人々も、こんなCMを観ていたでしょうね

(あくまでも個人の想像です)。

 

ああ、懐かしいけど、まとまりがない。

病気のこと

2015年8月18日(火)、いつもの床屋さんで、顔をあたってもらっているとき、

右目の下にカミソリが当たった瞬間、「ピリッ」という感触がありました。

直感的に「なんか変。」と思いました。

 

帰宅して晩御飯を食べつつ、テレビを見ているとき、

「右手が変。」…いえ、「変」としか言えないのです。

丁度その晩見ていたテレビの内容「脳梗塞の前兆」に

なんか、二つとも合致するのです。

林先生の番組だったかな。

 

翌朝、出勤時、ウチを出て5分ほど後、

対向車が二台に見えたのです。

でも、すれ違うと、一台でした。

 

職場で、ネットを漁りまくりました。

脳梗塞の前兆」。

 

対向車が二台に見えたのが決定打でした。

この日に診察している、自宅近くの脳神経外科を調べ、

定時で退勤。

自宅で着替えて、病院に直行。

これまでの経緯を説明したら、すぐにMRI検査。

結果は、左脳幹に軽度の梗塞あり、でした。

即入院、点滴で170を超えたを血圧を下げつつ、

血液の粘度を下げ、梗塞部分の血栓を溶かし始めました。

 

                   続きます。