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引っ越しをした750乗り。

平成のおわりと、ほぼ時を同じくして定年を迎えました。愛機Z750Fourのこと、趣味のこと、日々の出来事や思い出話を徒然に記していきます。

昭和50年代の高校野球の話

私、今は千葉に住んでいますが、25歳まで横浜に住んでいました。

出身高校は横浜市立桜丘高校といいます。

 

この高校、のんびりした校風が特徴だったのですが、もう一つ、特徴がありました。

当時、神奈川県の夏の高校野球の決勝戦は、県立保土ヶ球場で行われていたのですが、

私の母校、市立桜丘高校(ああ、めんどくさい。ごめんさい。以下桜高)は、

その保土ヶ谷球場の直近の公立高校だったのです。

私が知ったのは、入学後でしたが、同級、あるいは一つ二つ下の女子には

意外と知られていたようです(あくまでもおばか男子の間での噂です)。

その特徴というのは、その保土ヶ谷球場高校野球の試合が行われるときには、

我が桜高の生徒がスコアボード係やウグイス譲を務めるということです。

これは、当時の県高野連の偉いさんであったT先生が

桜高の教師だったことも関係があると思います(就職して十年近く経って、

千葉県でこの先生の名前を聞くことになるのですが、それはまた、別の話)。

実際、私たちにも、高校一年生の時、T先生から

「夏休みにアルバイトしない?保土ヶ谷球場のスコアボード係なんだけど」

というお声が掛かりました。

男子はスコアボード、では、女子は?

 

はい。ウグイス譲ですね。

 

さて、当時私の同学年の高校生には、日本中で有名な三人の人物がいました。

一人は三浦(山口)百恵さん。

二人目は原辰徳さん。

三人目は、山田詠美(この時は存在も知らなかった)。

 

百恵さんや山田詠美(なぜ呼び捨て?それはまたいつか。)は別の話として、

原辰徳さん(現巨人軍監督)は、東海大相模高校出身ですよね。

私が高校時代神奈川県では、東海大相模が圧倒的な強さを誇っていました。

そしてその中で人気を博していたのは、原辰徳さんです。

その「原辰徳」さんの名前を、球場で呼ぶことができるのが、

我が桜高の女子生徒の(中の何人かの)特権だったのです。

 

とにかく、日ごろは閑散としている保土ヶ谷球場ですが、

東海大相模の試合があるときは、女子高校生が駐車場までいっぱいになるほど。

それで、原辰徳さんが在学中には、我が桜高には女子の受験者が増加した、

という、これはまあおばか男子生徒の間のただの噂ですけど。

インターネットもない時代に、どうしてそんなことを女子中学生や女子高校生が知っていたのだろう。

落ち着いて考えてみれば、本当にただの噂だったのかもしれません。

 

よし、今度の同窓会で、女子に聞いてみよう。

 

あ、原辰徳さんが甲子園に出場した時、NHKのアナウンサーが

学校名を「とうかいおおずもう」と間違えて読んだ、というのも

遠い昔の噂話です。あしからず。

 

 

 

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