自粛中の楽しみ4(これはただの昔話)
何はともあれ、ゴールデンウィークに突入しました。
昭和の後期(20年をひとまとまりとして前、中、後期に勝手に分けております)、
具体的には昭和四十四年五月、日本は、(多分)三連休に浮かれておりました
(平成以降に生まれた方は想像もつかないでしょうが。その当時は学校は週6日制、
国民の祝日が日曜日にかぶっても「ああ、残念でしたね。以上。」という時代)。
なので、連休というのは二連休のこと。
今日(五月二日土曜日)を含めて五連休など、夢のまた夢。
そんな中、前述の三連休は、本当に奇跡のようなものでした
(ま、今年はあまり関係ない人が多いんでしょうが)。
小学校4年生だった私と両親、小学校一年生の弟は、
この三連休を使って、山梨の、母の実家に帰ることにしたのです。
その時の帰省は珍しく新宿発の列車で甲府まで行くことになりました。
いつもは、
この記事にあるように、中央線は八王子から。
うまく高尾発があればボックスシートに家族四人で座れることはある。
新宿発の普通列車は、八王子ではほぼ満席。
みんなてんでんバラバラに座るという一家離散状態で帰省していたのですが
(指定席とか急行、特急という選択は両親には毛頭なかったと思う。
何しろ高額なので…)、さすがに日本全国が浮かれていた三連休。
両親も途中乗車が厳しいと思ったのでしょう。
珍しく新宿発の列車で帰省することにしたのです。
が、「八時ちょうどのあずさ二号で…」なんて、無理。
お金はかかるし、存在さえしていなかった。
多分連休前日、五月二日の夕方新宿発の各駅停車で甲府に向かったのですが、
その時、いまだに忘れられない恐怖体験をしました。
運よく自由席のボックスシートに座ることができたわが家四人ではありましたが、
列車は乗車率200%くらい(よくわからんけれど、シートは満席、通路も立っている
乗客で一杯)、そんな中発車数分前、外から列車の窓を叩き、「開けろ開けろ」と叫ぶ数名の若者が…
両親は、何事だろうと思って窓を開けたのでしょう。
もしや緊急事態か、と父(もと鉄道員)は窓を開けたのでしょう。
すると、その若者は窓から大きなリュックサックを押し込み(投げ入れられるような
重さではなかったように思います)、続いて自身が窓から車内に入り込み、
「文句言ってるのはどいつだ!」と叫びながら周りを威圧するように、通路に立つ人を
押し分けてデッキの方へ歩いていったのです(そんなことが同じ車両のいくつかの窓で
繰り広げられていました)。
多分、近辺の大人は唖然。子供(私ね)はびっくり、恐怖で黙っておりました。
半世紀が過ぎた今も、あの時の若者の恐ろしさは覚えています。
大きなリュックと、ピッケルから、登山をしようという人だという事は
想像がつきます。
登山をする人が皆、こういう人たちだとは思いませんし、登山愛好家を貶める気持ちも
毛ほどもありません。
ただ、昭和四十年頃、こんなことがあったと、知っておいてほしかっただけです。
人を「○○(登山愛好家とか、オートバイ乗りとか)」と、ひとくくりにするのは
間違っていると思います。
が、こういう風にひとくくりにされ、批判されるようなことは慎もうという
自分への戒めでした。